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日田を注目する歴史家

日田市出土の
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

『豊後国風土記』の
  久津媛(ひさつひめ)

日田と卑弥呼の
   後継者台与(トヨ)


日田は天照大神と素戔嗚尊・月読のうまれた
      筑紫の日向


小迫辻原遺跡と
  邪馬台国・磐井の乱


神功皇后は日田を拠点として北部九州を統治した事実は竜宮城物語
    そして日田は出雲









日田出土の鉄の鏡「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(国重要文化財)

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしりゅうもんてっきょう)


金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と
           金錯鉄帯鉤
 今の考古学界から無視されつづけているこの鏡。本来この鏡は、中国の文献(『三国志』曹操の時代)では、金で装飾された鏡は皇帝しか持ち得ない鏡であると記述される。
 この当時は胴が不足し鉄の鏡がつくられるようになるのだが、中国でも珍しい鏡なのに、何故か日本ではまるで無視されつづけているのだ。
 この鏡が発見されたのは昭和8年という時代と実際発掘(小学校で陳列されていた)さてれいないという事実がこの鏡の運の悪いところ。もし、今の時代に発掘されていたら、もっとこの鏡の価値も上がったろうし、日田の古代史も注目されただろう。

 実はこの鏡、大阪の考古学者が古物商で買い、その経緯を辿ると日田に行き着いた。そしてこの鏡を発見した渡辺氏の鏡の保存状況などから日田出土という確証へとつながった。ただし、地元別府大学考古学者は鉄鏡は日田の誰かが買ってきたものだと平気で発言する事には不快感を感じる。
 それも確証がないから仕方ないが、金錯鉄帯鉤の存在や小迫辻原遺跡などの他の検証からも日田に存在していても不思議ではない。
 金で装飾された日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と金錯鉄帯鉤は卑弥呼が所持していても・・・所持したくなるもの。


    日田市出土の”鉄鏡”が意味するものは

鉄鏡の仮説を紹介。
@鏡は昭和に入り古美術商から購入したもので日田の古代とは無縁である。
A鏡は中国から卑弥呼に贈られた鏡である。
B鏡は国内でつくられた鏡であると鏡の発見者渡辺氏は発言した。最初は笑ってしまったが、古事記などの記述などにより、その可能性がる事がわかった。渡辺氏は発見したときに鏡の様子か周りの様子でそう思ったのか?。
Cこの鏡は天の日矛が持ち込んだ日鏡D鏡は八咫の鏡E鏡は神功皇后がヤマトの奇襲攻撃の為日田に隠した。その後、出雲の神宝である鉄鏡を必死で探したヤマトは出雲(日田)を崩壊させてしまい日田の住人は出雲大神を祀る事を禁止された、しかしその後、出雲の祟りで口を聞けない王子が聞けるようになる記述も日田での出来事であり、出雲(島根)ではない出雲国造の祖「岐比佐都美(別名)来日田維穂命」(きひさつみ)こそ日田の久(比佐)津媛である。岐=八衢・比佐=日田・都=地・美=木花之佐久夜毘売・髪長媛
毘売は夜(一夜で身籠もる=武内宿禰・蛇=大物主神=神功皇后の意)久佐(ひさ)の花の木(綺麗)の意。


国学者、飯田武郷と平田篤胤は八咫の鏡”鉄鏡だと”
    
      いう説を江戸時代に仮説していた事実は知られてない。


胴の鏡と金銀で装飾された鉄の鏡のどちらが欲しいかなぁ?。それが卑弥呼、天照大神の鏡でしょうね。

  この鏡は、日本古代史を根本から覆し、邪馬台国論争さえも大きく変える可能性がある。しかしながら考古学者のほとんどは邪馬台国畿内説であり、この鏡の重大さを認識していない。そろそろ、この鏡の認識がわかる今の時代に、そして封印された日田から解き放たれる時期が来たのだろう。

 
日田は天の岩戸開きが行われた場所だった。そして天照大神を岩戸開きの際につくらせた鏡=八咫の鏡は”金銀錯嵌珠龍文鉄鏡”ではなかったか。

 日本国内からは、飛騨高山で小さな鉄鏡は出土しているが、金銀で象嵌はされていない。国内で金銀で象嵌された鏡は日田ダンワラ古墳出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡だけである。もし八咫の鏡が”鉄鏡”となれば日本古代史の根本を覆し歴史観も大きく変わる事になるだろう。

鉄鏡金錯鉄帯鉤
鉄鏡は「八咫の鏡}?という仮説を季刊邪馬台国の本で紹介されいる。

 『古事記』には天の岩戸開き・「天安河の河上の堅い岩を取り、天の金山の
を取って、鍛人天津麻羅を探して、伊斯許理度売命に命じて鏡をつくらせ」
この鉄を取ってという表現は一般的には銅鏡とされいるが『古事記』の「鉄」という表現は鉄鏡を暗示しているのではないか。。日田出土の鏡は21センチ程度と小さいが、八咫の鏡は木の箱が何重にもなっているという説がある。錆びないように慎重に保存されているのかもしれない。その意味は箱は大きくても鏡の大きさは小さいという可能性もある。

 この鏡が発見されたのは昭和八年であるから、それ以前に八咫の鏡は鉄だという説があったわけである。また『古事記』では「天津麻羅を探して」という事はもしかしてこの鏡は日本国内で製造されたのではないかと思われる記述だ。

 また「初度に鋳造された御鏡(前霊)を日前(ひのくま)國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡は、伊勢の神宮の御神体として奉祀された」と『日本書紀』に記されている事から、あくまでも推測でしかないが鉄鏡は実際に複数あるのかもしれない。

 この八咫の鏡は個人的な意見であるが、天の日矛が持ち込んだ「日鏡」ではと思っているしもちろん出雲の神宝ではともこじつけているが、日矛はこの鏡をおそらくヤマトから九州へ持ち込み鏡職人につくらせたのではないか。日矛は素戔嗚尊であり「鉄
というキーワードでもつながっている。

この鏡は日本古代史の秘密を知る生き証人

ヒサ=鏡を意味する古代の言葉ではなかったか。
日田古代の女王「比佐津媛(ひさつひめ)」が訛り日田となったと『豊後国風土記』は伝える事実はある意味、鏡の女王という事になる。日田=ひさ・宇佐=うさの意味も太陽信仰の日田であり、海の神、宇佐であろう。歴史作家関裕二先生は「宇佐には天の日矛が」。
 であれば、私見で宇佐・宗像・住吉とつながることで本当の神話が封印した歴史がみえてくる。宇佐はある意味、極論ではあるが日田の祟りを封印する為の神社であり、日田は神功皇后と武内宿禰(天の日矛)の怨念が交差する場所で、ヤマトは必死に日田(出雲)を崩壊させ叩きつぶしたに違いない。日田と筑紫の神功皇后の残党は、宮崎へ飛ばされた可能性もある。日田は本来、日向(日田・筑紫)であり、日向という地名も飛ばされた。



故、賀川別府大学教授の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とは
日田の遺跡・遺物は何を意味するか
三角縁神獣鏡と邪馬台国
ブロフィ−ル 賀川光夫
・1923年栃木累鳥山町生れ
・日本大学法文学部卒業
・現在別府大学名誉教授
咋年末奈艮県天理市柳本の黒塚古墳から大量の三角縁神獣鏡が見っかりました。三角緑神獣鏡とはどんな鏡なのでしようか。
まず三角縁神獣鏡について述ベたいと思います。この鏡の特徴は、1、大きさが平均して23センチ位の大形鏡であること、2、鏡の縁の断面が三角形になること、3、内区(主な文襟のあるところ)の文榛に神像と獣形をいくつかの形式に分類して配置されること。4、なかには銘帯{文字を刻んだところ)があり、文章に次のような特徴がみられる。
A、陳、張は作者の名前で、日本人には無い人物が作ったとする文字「陣是作鏡」などが書かれていること、B、鏡を作った中国の年号(紀年鎮)を現わしていること。例えぱ「景初三年」などの文字が彫り込んでいます。C、文章には吉祥に関する文字「渇飲玉泉飢食嚢」「寿如金石」などが書かれていることなどが注目されます。
ここで注目されるのは「景初三年陳是作鏡…」や「正始元年陳是作鏡」など中国三国時代、魏の年号と作者の文字が書かれている鏡が何枚も発見されていることです。この銘文から三角縁神獣鏡は幾内の鏡で、「三国志』東夷伝にみる「献…銅鏡百枚」にあたり、鏡代に交淀のあったのは畿内(邪馬台)であると考えらることができることになります。また大阪府茶臼山古墳から出土した三角縁神獣鍍の文章には「「銅出徐州師出洛陽」(飼は徐州から産出し、鏡を作る技術者は洛陽にいます)とあり、徐州と洛陽の地名を併記する峠代は魏代に相当しますので、このことから三角縁神獣鏡は魏の鏡に間違いないということになります.
この考えについても反話があります。日本の3世紀末から4世紀のころの前方後円墳から大量に発見される三角緑神獣鏡は不思議にも中国では1杖も見付かっていません。更に銘文には「景初四年五月丙午之日 陳是作鏡…」(福知山市広峰古墳》の文字の刻まれた鏡があります。景初という魏の年号は三年で終わっていて四年は正始元年になります。この二つのことなどから三角縁神獣鏡は中国の舶載鏡ではなく、国産であるとして反論しています。このようにに邪馬台国論争の重要な論拠に三角縁神獣俄がありますのでこの鏡の大量出土は問題になります。
畿内を中心とする漸方後円墳から発見される三角縁神獣鎖の大量出土が邪馬台国請争の能を握るということになるのでしようか。前述の如く、三角縁神獣鍍と邪馬台園の関係を疑間槻する考えもあります.1、中国で一枚の出土もない三角縁神獣銚、2、ありもしない(あってはならない》景初4年紀急鎖などの出土などが解決されていません.貌書の「銅鎖百枚」は後撲、三国峠代の鑓(画像鏡、内行花文鏡、方格規矩四神鏡、獣帯鏡、画文帯神獣鏡など)であるかも知れません。これらの鏡の大量出土は北部九州に集中しており、「三国志』魏書の末盧国、伊都、奴国等に推定されている地方から多く出土しています.この後漢、三国時代の鏡を畿内の三角縁神獣鏡と等間において議論しなけれぱなりません。九州に於ける後漢、三国時代の鏡の大量出土は次のようになっています。
福岡県前原市有田平原遺跡 前漢・三国時代前期35面(内方格親矩鏡32面)福岡県前原市井原鑓溝遺跡 同上 21面(すベて方格鶏矩鏡》これちは一つのカメ棺かちの同時出土で、全て魏代の交流とみてよいと思います.更に前漢鏡を主体として出土した遺跡につぎの遺跡があげられます。
福岡市須玖岡本遺跡 前漢時代 33面福岡県前原市三雲遺跡 同上 35面この2遺跡もカメ棺からの同時出土であり、前漢書地理志の「倭人百国」に関俄があると思われる峠代の舶載鏡であります.このうち須玖岡本遺跡以外の三違跡は糸島郡にあり明らかに「伊都国」(‐大卒)と関係があります。須玖岡本遺跡を中心とする福岡平野の
一部は邪馬台国論争、九州説にとって重要な位置となります.さて女王の所在は中国の史書によると邪馬台国の都城とは述った場所であったと思われます。日田盆地は弥生末かち古墳初期、3世紀末の遺跡と、遺物の中でずば抜けて重要なものが出土いています.
小迫辻原遺跡は邪馬台国の世紀に当る巨館(祭屋》を含めて、大集落が展開しています.伝ダンワラ古墳出土の金銀錯嵌朱龍鏡は高貴な宝器とされ、稀有な資料であります.また江戸時代末日隈古墳かち出土したとされる後漢時代末の細線式獣帯鏡の検討も興味があります.
適跡・遺物からみて日田盆地が漢代以降中国と交淀のあった福岡平野の奥城的存在を意味していたのではないかと考えることができます。金銀錯嵌朱龍鏡や金錯帯釣は他に例がなく、三角縁神獣鏡と比戦してみると数段高貴な宝器であり、金印にも比すベき遺物であると考えます。


 
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