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日田を注目する歴史家

日田市出土の
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡


『豊後国風土記』の
  
久津媛(ひさつひめ)
日田と卑弥呼の
   後継者台与(トヨ)


日田は天照大神と素戔嗚尊・月読のうまれた
      筑紫の日向


小迫辻原遺跡と
  邪馬台国・磐井の乱

神功皇后は日田を拠点として北部九州を統治した事実は竜宮城物語
    そして日田は出雲









日本最古の豪族居館跡 「小迫辻原遺跡」

詳しくは・リンク先を

 この遺跡の特徴は、日本最古の豪族居館跡という事より、山陰と畿内の土器が出土する異様な遺跡であるのだ。卑弥呼の時代の土器は庄内式、台与の時代は布留式と言った方がわかりやすいだろうが、布留式土器が日田の遺跡から出土した理由は邪馬台国論争にも影響を及ぼす事実。
 
 

筑後川三大遺跡
 筑後川三大遺跡は吉野ヶ里遺跡(佐賀)と平塚川添遺跡(甘木)と小迫辻原遺跡(日田)であろう。この遺跡の特徴は個人的に古墳時代の始めに衰えている事実はその当時の権力が大きく変わった事実を伝えているのではないだろうか。筑後川三大遺跡の特徴は卑弥呼の時代と台与の時代にかけて大きな政変があって『魏志』倭人伝の邪馬台国卑弥呼の死亡とつながっていると思われる。

 倭人伝を読む限り卑弥呼はみんなに見とられ死んだようには理解しにくい、どうも不可解な死といったほうがぴたりとあてはまらないだろうか。また卑弥呼の邪馬台国が恐れていた狗奴国はどこなのか。九州説では熊本県あたりと仮説され、畿内説であれば愛知県といわれている。邪馬台国は狗奴国に消滅させられたという説もあれば邪馬台国は畿内へ東遷したという説いろいろあれ『日本書紀』さえこの邪馬台国という文字さえ出てこないのだから・・・
 邪馬台国を藤原不比等が封印した最大の理由は「書けなかった」・・笑・・というのが理由では。その事実を『記紀』神話に例えてしまったと私は思う。神話と神武天皇は縦に上から下へ時代としてつながっているが本当は複雑に絡み合っているのではないかと思うのである。
 アマテラスと素戔嗚尊の神話と神が人となり現れる神武からと重なりあう事で本当の古代が甦ってくると想像する。わかりやすく言えばアマテラス=神功皇后  素戔嗚尊=武内宿禰 というぐわいに例えればなるほどという仮説も多くみえてくる。もっとわかりやすく言えば・・・400字の小説があって、その本は透明のフィルム2枚でできている。その一枚には漢字ばかり、もう一枚にはひらがなばかりが書かれていてその二枚が重なってようやく文章として読めるようにある。そう一枚に『記紀』神話もう一枚には神武からが書かれている、この二枚を重ねると歴史の真実がみえてくる、これが『記紀』神話の謎解きのテクニック?。
 話を戻しましょう。ここで北部九州における日田の地勢を考えた場合小迫辻原遺跡の意味するものはヤマト勢力による出城と理解するのが最適な意見であろう。
 今の考古学上この遺跡があるかぎり、九州邪馬台国がヤマト朝廷になったという仮説は否定される。
 
 奴国にも布留式土器がある事実は、ヤマト勢力が玄海と日田からじわじわ筑紫勢力の包囲網をつくってきた事実を証明しているのかもしれない。筑紫の磐井も最後は勢力的に筑後川の南岸まで追いつめられ・・・邪馬台国と同じ運命にあったのかも・・博多・伊都にいた卑弥呼が実は筑後川の南岸まで勢力を後退しつづけけのでは・・
 
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