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日田を注目する歴史家

日田市出土の
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡


『豊後国風土記』の
  久津媛(ひさつひめ)

日田と卑弥呼の
   後継者台与(トヨ)

日田は天照大神と素戔嗚尊・月読のうまれた
      筑紫の日向


小迫辻原遺跡と
  邪馬台国・磐井の乱


神功皇后は日田を拠点として北部九州を統治した事実は竜宮城物語・そして日田は出雲。








神功皇后とは

 『記紀』神話のここで神功皇后について詳しくは述べないが、ヤマトから九州へ出向き九州を統治した女性である。そして夫は仲哀天皇。宇美で応神天皇を産んだとされる。

 そこで歴史作家関裕二先生がとなえるように、日田を拠点として神功皇后は北部九州を統治していったという仮説は矛盾するわけでない。豊臣・徳川も日田を拠点として北部九州を統治していた事実は邪馬台国論争にも影響を及ぼす事実なのだ。
 こんな日田の田舎で何ができようかという方、そこでアナタがヤマトの権力者として筑後川流域を支配するなら何処に拠点をつくる?。かんがえてみて
 筑後川の北岸と南岸を最大限利用すると考えると日田を統治してそれから筑後川という高速自動車道を活かすのが最適ではないだろうか。
 日田は盆地でまわりを山に囲まれいかにも筑紫ににらみをきかすには最大の良い場所に位置する。筑紫から日田に突入としても夜明けという地名の場所は山と山の間を流れる筑後川という地理は日田への進路を困難にする。この時間を利用して山国川を利用して宇佐や中津への逃亡も可能である。これは江戸時代における日田天領とおなじ事。
 『記紀』神話に登場しない日田であるが、日田には神功皇后伝承が多くのこり、また山国町にも神功皇后伝承がある。ここに神功皇后は日田を九州司令部の本拠地にして、筑紫の勢力と戦ったというのが本当の姿で、そして武内宿禰も本当は日田を・・・。武内宿禰=浦島太郎(二人とも300年生きた)であれば北部九州は竜宮城であろうが、その二人の竜宮城は日田であった可能性がある。そこで応神が生まれても不思議はない。その事実を『記紀』神話は封印したというのが事実ではないか。
 その事実が暴かれると、大和朝廷にも負い目というか不利になる立場であるから「書けなかった」という事。
関裕二先生が言われるように、小迫辻原遺跡は最後焼き尽くされた形跡が考古学で証明されている。そして再建された形跡はない。個人意見だがこの遺跡はヤマトによる仕業であり、神話の出雲の崩壊という事実を伝えている証拠ではないか。

日田は出雲
出雲風土記には、大巳貴神が国を譲るかどうかを子供の事代主神に相談している、そして事代主神が自分で判断しているそんな権力を持った事代主神が風土記には書かれていない。この出雲は舞台にして借りたものである本舞台は何処かの場所にあるはずだ

大阪教育大学名誉教授ー鳥越健三郎教授

 『日本書紀』の崇神すじん天皇60年に、出雲本国の征服を示唆する説話が見える。
天皇が、出雲大神の神宝を見たいと望み使者を派遣した。神宝を管理していた出雲臣の遠祖の出雲振根ふるねは
、筑紫に行っていたため会えず、弟の飯入根いひいりねが神宝を奉った。
筑紫から帰った振根は入根を恨み、斐伊川の止屋やむやの渕ふちに入根を誘い、あらかじめ用意していた木刀を入根の刀とすり替え、入根をだまして切り殺した。入根の弟から報告を受けた朝廷は、吉備津彦きびつひこと武淳河別たけぬなかわわけを派遺して出雲振根を殺した。出雲臣らは恐れて、しばらく出雲大神を祭らなかったという。


この物語は、出雲の崩壊をしめしている。


『古事記』には出雲の大神に参拝して帰る途中、斐伊川の仮宮で口がきけきるようになったという説話がある。
出雲国造の祖「岐比佐都美」(きひさつみ)が、川下に青葉の山のような飾りを造り、食事を献上したとき王子は口をきき、「川下に青葉の山のように見えるのは、石いはくまの曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大神を祭る神職の祭場ではないか」と言ったという。
ここにきて『古事記』は、葦原色許男大神(大穴持大神)が、杵築大社ではなく、
曾宮に祭られていたのを認めているのである。

この岐比佐都美という人物は誰なのか『豊後国風土記』の久津媛(ひさつひめ)にそっくりでないか。曾宮
も日田の会所山(よそやま)と呼び名もちかい。


岐比佐都美(キヒサツミ)ト称ス。
垂仁天皇ノ二十三年甲午冬ノ十一月朔乙未皇子本牟智和気命(ホムヂワケノミコト)出雲大社ニ参・
(別名)来日田維穂命(キヒタイホノミコト)
拝シ、始テ言ヲ発セラレ、還啓ノ後、天皇歓喜シ給ヒ、即チ菟上王(ウナカミワウ)ヲ遣シテ出雲神宮ヲ造営セシム。

別名来日田維穂命という呼び名からも日田との関連を想像する。


日田だけが出雲神話ということではない。もちろんヤマトだって大物主神からも出雲の世界であるかから、出雲神話もヤマトー出雲ー日田という広域での視野でとらえた方が良いのではないでしょうか。

日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は出雲の神宝であろうし、必死にヤマトは探したがみつからなかった。そして今その鏡は甦ったというわけだろう。

関裕二先生が著書でも述べてるように。巨大化しすぎて権力を持ち始めた神功皇后はヤマトも恐れる権力を九州で身につけそれをヤマトは危惧する。そしてヤマトは身内を襲いその事実は後世祟りとして大田田根子を探し出すという物語で伝えている。

 
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