邪馬台国東遷

二つの邪馬台国

『魏志』倭人伝の
 邪馬台国とは何処?














邪馬台国東遷
東遷説から日田を考えた場合には、本来の邪馬台国の中心地は甘木や八女、高良山あたりが妥当な場所であろう。宇佐という説もあるが・・・

 一般的、九州邪馬台国説には筑後川流域(甘木・吉野ヶ里・高良山・八女)と福岡市・宇佐などが有名である。
しかし現実ながら邪馬台国説は、素人の九州説・考古学者の畿内説というふうにわかれるだろう。

 九州邪馬台国が東遷し大和朝廷につながったのだろうか?。『記紀』神話の神武天皇の東征はなにをものがったているのか。安本美典氏は筑紫平野の地名が大和へ移動したという説を唱えたり、『魏志』の記述されるものは大半九州から出土される経緯から邪馬台国は九州であるという心強い説をとなえ考古学界に挑戦している。

ここで『魏志』の記述を追い求めても、事実、日本国どこでも当てはまるという矛盾は解消されない。考古学的には東遷は非常に困難な位置にあるだろう。ただし庄内式土器、布留式土器が九州の土器であれば話は大きく変わるが、現にその説をとなえている方もおられる。
 







 
inserted by FC2 system